「言葉がない」という言葉はこういうときに使うのだと実感した。
首里城は観光で何度か訪れただけだ。海や自然の美しさはもちろんだが、文化や風土や歴史についてもほんの少しだけ普通の人よりは興味を持っていて、100名城スタンプを集める程度の城好きというだけで、実際のところ沖縄には縁もゆかりもないのだけど、自分でも意外なくらいにショックを受けている。
今は過去に首里を訪れた際に自分で撮った写真をしみじみと見返すことしかできない。敢えて写真の選別はせず、手元に残っている写真を思いついたままに並べておいた。いつかまた同じ写真が撮れることを願って。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f4.0, 1/25sec, ISO3200
正殿のど真ん中にあった玉座と扁額。これらも本殿の建物と同様に、資料に基づいてできる限り正確に再現されたレプリカだが、燃えてしまった。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f2.8, 1/50sec, ISO3200
首里城を見れば沖縄というか琉球王朝は明らかに本土(内地)とは違って、中国の影響をより強く受けていることが分かる。
2012年4月 / PENTAK K-5, DA 18-135mm F3.5-5.6 ED AL[IF] DC WR, f3.5, 1/20sec, ISO400
しかし内部にはこうした畳敷きの和室もあったりするから面白い。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f8.0, 1/320sec, ISO200
本殿の正面外観。この景色はもうない。
この時は、朝一番に見学に行ったのだが強烈に逆光だった。首里城の入り口あたりで地元のおじいに「午後に出直した方がいいさ〜」とアドバイス受けたことを思い出す。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f2.8, 1/2500sec, ISO200
本殿に向かって左側に立つ北殿。反対側には黄金御殿や奥書院、そして南殿がある。これらは一部コンクリート製だったようだ。だから跡形もなくなった本殿と違って構造物が少し残っていた。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f4.0, 1/40sec, ISO3200
本殿の真下には数少ない現存遺構が残されていた。再建された本殿はその遺構を保存するために少しオリジナルよりは高い位置に建てられ、こうして一部が見えるようになっていた。これは無事だろうか?
そして世界遺産に指定されているのはこうした現存遺構のみで、復元された本殿その他の建物は本来関係ない。だからちゃんとこの遺構が残っているなら、本殿はじめ多くの建物が失われたとしても多分世界遺産としての価値は毀損していないはずだ。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f5.6, 1/500sec, ISO100
正殿を背に振り返ると奉神門がある。本殿への入り口であるとともに今は有料エリアへの入場ゲートとなっている。鎮火後の写真を見るとこの門はほぼ残っているようだ。
奉神門から本殿に向かって参道のようにタイルが貼られているが、面白いことに正殿に正対しておらず少し傾いている。風水的な何かによるものらしい。
2012年4月 / PENTAK K-5, DA 18-135mm F3.5-5.6 ED AL[IF] DC WR, f9.0, 1/15sec, ISO3200
本殿内にこういうミニチュアの再現模型が置かれていた。広場のタイル模様はこうして綺麗に整列するためのもの、そして王様が座った本殿内の玉座は、正面扉を開けば外から見えるようになっている。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f8.0, 1/160sec, ISO100
北殿の屋根。この赤瓦は沖縄特有のものだ。今でこそ民家にも使われているが、本来は宮殿で独占していたものらしい。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f8.0, 1/200sec, ISO200
多分、奉神門をくぐるときに撮ったもの。首里城は全体的に壁を覆う鮮やかな赤が印象的だ。これも特殊な漆塗りだそうだ。再建に当たってはこうした素材の確保や技術の再生が重要になる。
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f2.8, 1/200sec, ISO200
小さなシーサー(かな?)があちこちにいた。かわいい&格好イイ。写真を見る限り石像の用に見えるが、倒壊したにしても肝心な部分は残っていたりしないだろうか?
2017年3月 / PENTAK K-1, HD D FA 24-70mm F2.8ED SDM WR, f2.8, 1/320sec, ISO200
そして本殿正面の両脇に立っていた大龍柱。今回の火災での焼け落ちたり倒壊することなく残っているそうだ。再度の復元に向けてのシンボルとなるのだろう。
by PENTAK K-1改
100名城スタンプは2017年の3月に押してきた。根室半島チャシ群跡から始まる日本100名城のナンバリングは、首里城がが大トリの100番となっている(ただし押す順番はもちろん自由)。
この通り、スタンプのデザインはもちろん本殿をモチーフにしている。本殿がなくなっても100名城としての価値に変わりはなく、火災についての原因究明と片付けが済んだら、これまで同様に今後も100名城スタンプは押せるはずだ。でも… 2019年10月31日以前と以降では、このスタンプの意味合いはちょっと変わってきてしまいそうだ。
2012年4月 / PENTAK K-5, DA 18-135mm F3.5-5.6 ED AL[IF] DC WR, f7.1, 1/250sec, ISO160
「焼失したと言っても所詮再現建築物だろ?」と醒めた言われ方をすることもある。それはその通りだ。日本軍の司令部が置かれていたこともあって、沖縄戦で破壊され尽くした首里城跡に残る現存遺構は実は非常に少ない。
数少ない現存遺構と、数少ない資料や写真と、戦前の首里城を覚えている数少ない人々の記憶を頼りに、非常に丁寧な研究と調査によって、素材や技法から復元されてきたのが首里城跡だ。「根拠のないもの、分からないものは再建しない」というのがポリシーだったそうだ。復元は縄張りや石垣の再生から始まったもので、本殿は象徴的な建物であるものの、首里城跡の全てではない。
今でこそ全国各地で城郭の木造復元の機運は高いが、昭和30年代にたくさん造られた全国各地の外観復元天守から考え方を一歩も二歩も進め、オリジナルに忠実な木造復元を実現させた元祖であり、城郭に限らず遺構や遺跡の復元というものはどうあるべきか? という問題に対するひとつの解を示したモデルケースだったと思う。
それぞれの城跡と地域の人々の関係や意味はいろいろだろう。決してプラスばかりとは限らず、城や宮殿のそもそもの成り立ちを考えると、マイナスの意味を持った遺産でもありうる。もちろん首里城も含めて。
沖縄の人達にとっての首里城の位置づけがどういうものであるかは、観光したことがあるだけのナイチャーが一時の感傷にまかせて無責任に何かを言うことは出来ない。それは沖縄の人達が語るべきことだ。
だから何が言いたいかというと「所詮レプリカだから…」というのは事実ではあるものの、その言葉の後に続くであろう「価値はそれほどでもない」と言ってしまうと、それは「城跡にはもはや価値はない」あるいは「城には興味はない」と言ってるのと同じことになる。もちろんそういう考え方、意見は十分にあり得るだろう。そうであるならその意見は尊重する。
しかし「現存は大切だけど、復元はどうでもいい」ということなら、大いに反論がある。そんなことは絶対にない。「観光目的のテーマパークだろ?」とくると、もはや反論する価値もない。
歴史を記録し、時に再現する試みというのは、「歴史」という概念を得た人間が知能と知性を持っていることの証であるはずだ。現存遺構にはもちろんそれだけで素晴らしい価値があるが、復元建築物には「復元作業を行った」という過程を経た分、現存とはまた違った価値があると考えるべきだ。
だからいつかまた、真っ赤な首里城本殿の姿が見られることを心の底から期待している。